どんな場面でも自分が望んでいるとおりの結果がもたらされないと、多くの人は不満に感じるものです。結果に対する期待が大きければ大きいほど、期待に添わない結果に対しての不満はさらに大きくなります。たとえ自分が勝手に期待して妄想を膨らませていただけだとしても意に沿わない結果というのは受け入れがたく、どうかすると何か他のものが自分に悪意を持っての仕業と考えてしまい、周囲に攻撃的になることさえ起こってしまいます。
仏教でも「人生は不条理」と説いています。何事も思うようにはいかないものであり、努力をしたら必ず報われるわけでもなくその逆も起こります。災難にあった人にさらに追い打ちをかけるような悲劇が見舞うことだって珍しいことではありません。「神か仏か知らないがなぜこんな苦しみを与えるのか」と問い、周囲に不満を言うこともあるでしょう。とりわけ自分は善行を積んできた自負のある人であるほど、そうした不条理に対する嘆きは強いと思います。
しかし、こんなことを口にできる私はきっと本当の苦しみに接したことのない、いわばお気楽な人生を送っている存在ということかもしれないのですが、人生において不条理でない、つまり条理が通る状態の方が本当に正しいのでしょうか。もし不条理ではない状態、つまり望んだことがすべてそのとおりになるとしたら、果たして生きていて楽しいと思えるでしょうか?仮に明日何が起こるか全部わかるとしたら、他の人はともかく私にとってはとてもつまらないことなのではないかと思います。
結果がどうなるかわからないから一生懸命頑張るし、逆に結果がどうなるかわかっていたら努力など一切しなくなるでしょう、いや恐らくは何かをしようと考えなくなるような気がします。それではこの世に来た意味が全くなくなってしまいます。
不条理なことは仕方ないし、思うようにいかなくてつらい思いもすることになります。時には自身の命さえ終わらせてしまうほどの絶望に見舞われることも起こってしまうかもしれません。しかしそうした苦しみの中にあっても、なお命尽きるまで生きることにこそ、私は人生の意味があるのではないかと考えています。今日の苦しみが明日も続くかもしれないですが、それは明日にならなければわからないことです。
だから人生は不条理と嘆き悲しみつつも、その不条理ゆえにまた明日を生きていけることが最大の救いであるように私には思えるのです。