物と物を交換することで欲しいものを手に入れる方法を見出した人類は、さらにその先に進んでどんなものとも交換可能で、かつ持ち運ぶのに容易な「貨幣」を発明するに至ります。貨幣はその価値をほぼ普遍に保つことができ、またいつでも使用可能でしたから、貨幣を蓄えること=富を蓄えることと置き換えられ、その結果富める者が出現し周りとの差が生まれることとなっていきます。
貨幣にはその誕生時点から富の貯蔵手段としての役割があり、加えてその貯蔵量の多さは豊かさの証であり、人々はその豊かさに憧れを持っていました。誰しもがお金を沢山持ちたいと考え、ある者は事業の成功を願い、ある者は一攫千金の夢を追い、またある者は地道な蓄えを続けた訳です。結果の如何はともかく、人々の願いは「金持ち」に向かっていったのです。
しかしながらお金のそもそもの役割は交換の手段だったはずで、交換に使われないお金というのはお金本来の機能を果たしていないものということになります。使われないお金は何らの価値を生み出すこともなく眠っているだけなので、社会にとっては存在しないものと一緒なのです。お金は交換に利用されてこそ新たな価値を生み出しうるもので、そうして多くのお金が人から人に渡ってこそその存在の意義があるのです。
ところがそうした富の集積こそ豊かさの証と思い込んでいる人がほとんどで、その結果貯蓄や投資といった手段の如何を問わずにお金を集めることに執着していけば、お金以外の価値が見えなくなっていくのも当然のことでしょう。
諺に「人、酒を飲み、酒、酒をのみ、酒、人を飲む」というものがあり、酒を飲みすぎると、最後に人は酒に飲まれるということを戒めているものですが、お金に執着した人は「人、金を使い、金、金を使い、金、人を使う」となり最後は金の奴隷になるだけではないかと思います。
お金はあくまで幸せを感じるための道具です。如何に貯める、増やす、儲けるかではなく、如何に使うかにもっと神経を使うべきであると、この歳になって気づいた次第です。