カテゴリー: 人生はいいもの

  • お金は道具 その2

     お金は道具であると言ってはみましたが、私自身のことを振り返るとその道具をちゃんと使っているとは言い難いのが実情です。私はいわゆる「散財」というものの経験が殆どありません。それは手元にお金がないことも一因ですが、実のところ私も「お金の召使い」のような状態にあり、お金を使うためには余程納得した上でないと使おうとしません、一言でいうと「吝嗇(ケチ)」なのです。

     お金を使うとなると、その対象が自身にもたらす「満足」の度合いが十分あるかをどうしても考えてしまいます。たとえばお気に入りの高級時計を買うことでどの程度私が満たされるのか、買う前にあれこれ思いを巡らします。そしてその満足感が値段に見合っているかそれ以上と判断すれば購入に踏み切ることでしょう。一方で見合っていない、あるいはよくわからない状態では、多くの場合購入を諦めてしまいます。

     こうしてお金を使うことに慎重になり、さらに私が「満足感が値段に見合わない」と判断したものがやはりそのとおりだったとすると、次に何かの購入を検討する際に余計慎重になり、結果として買わずに「余計なお金を使わずに済んだ」と胸をなでおろすことが増えていってしまいます。

     ですが本当に買わなくてよかったのかというと、実はその点は全く分からずに終わっていることに気付いていないのです。買うかやめるか迷った末に買うのをやめたとすると、買ったことによる結果は全く見ることが出来ていないのです。確かにお金を使わずに済んだかもしれませんが、得た物は何一つありません。一方でもし買っていたとしたら、期待したような満足は得られずに無駄にお金を使ったという結果かもしれませんが、少なくとも物自体は自分の手に入ります。そして買った結果がどうだったのか、また一年先、その先にどうなるかを見ることが出来るのです。

     お金が道具だというのなら本来はためらわずに使わなくてはいけないものでしょう。しかしどうしてもそこで使ったお金に見合った満足が得られるかを考えてしまって二の足を踏むようでは、結局お金の主人にはなっていなくて、逆にお金の側から「もっと大切に扱わないと」と脅されている、つまりお金が主人の状態にあると考えられます。

     もちろん闇雲に使えばいいというものではありませんが、お金は道具、使ってこそ価値があるものと言うのであれば、なるべく躊躇わずに使いたいときに使うのが好ましいのです。

  • お金は道具

     物と物を交換することで欲しいものを手に入れる方法を見出した人類は、さらにその先に進んでどんなものとも交換可能で、かつ持ち運ぶのに容易な「貨幣」を発明するに至ります。貨幣はその価値をほぼ普遍に保つことができ、またいつでも使用可能でしたから、貨幣を蓄えること=富を蓄えることと置き換えられ、その結果富める者が出現し周りとの差が生まれることとなっていきます。

     貨幣にはその誕生時点から富の貯蔵手段としての役割があり、加えてその貯蔵量の多さは豊かさの証であり、人々はその豊かさに憧れを持っていました。誰しもがお金を沢山持ちたいと考え、ある者は事業の成功を願い、ある者は一攫千金の夢を追い、またある者は地道な蓄えを続けた訳です。結果の如何はともかく、人々の願いは「金持ち」に向かっていったのです。

     しかしながらお金のそもそもの役割は交換の手段だったはずで、交換に使われないお金というのはお金本来の機能を果たしていないものということになります。使われないお金は何らの価値を生み出すこともなく眠っているだけなので、社会にとっては存在しないものと一緒なのです。お金は交換に利用されてこそ新たな価値を生み出しうるもので、そうして多くのお金が人から人に渡ってこそその存在の意義があるのです。

     ところがそうした富の集積こそ豊かさの証と思い込んでいる人がほとんどで、その結果貯蓄や投資といった手段の如何を問わずにお金を集めることに執着していけば、お金以外の価値が見えなくなっていくのも当然のことでしょう。

     諺に「人、酒を飲み、酒、酒をのみ、酒、人を飲む」というものがあり、酒を飲みすぎると、最後に人は酒に飲まれるということを戒めているものですが、お金に執着した人は「人、金を使い、金、金を使い、金、人を使う」となり最後は金の奴隷になるだけではないかと思います。

     お金はあくまで幸せを感じるための道具です。如何に貯める、増やす、儲けるかではなく、如何に使うかにもっと神経を使うべきであると、この歳になって気づいた次第です。

  • 足るを知っていますか?

     世は令和という新時代に入って、昭和生まれの私としてはまさに隔世の感があります。かつては夢の技術だったことが生活の中に当たり前に存在し、便利という感覚すらないほどに進歩した世になりました。そうでありながら多くの人が何かしら満たされない思いや精神的な苦痛(ストレス)を感じながら日々を過ごしています。

     おそらくは今あるもので満たされているはずなのに「もっと、もっと」とさらに次を求め続けていることによるものでしょう。その結果より便利に、より快適に、より楽しくと要求の度合いは増すばかりでとどまるところを知りません。

     私にはその様子が、満たされない思いを何とか満たそうと努力しながら、一方でどこまで行っても満たされることがないという不思議なパラドックスを続けているように見えてしまいます。

     それはつまり「己に足る」を知らないからに他なりません。いや、もしかしたらわかっているけれども、周りを見回して「こんな程度で満足したら恥ずかしい」と思って、望んでもいないのにさらに上を目指そうとしているだけなのかもしれません。

     満足は文字通り「足るが満ちている」ということです。しかしその足るがどこまでのことを指すかわからないのであれば、永久に満たされることはなく、「足る」がならない「不足」や満たされない「不満」になってしまいます。

     技術の進歩による生活の改善は実に好ましいことですが、本当に自分が求めている姿なのかは自分にしかわからないことです。自分にとっての「足る」はどういうものなのか、しっかりと理解したうえで生きていかないと、一生不満なままの人生を送ることになります。

     私は今を生きている命、何とか意思どおりに動かせる体、それに衣食住が足りればそれで十分満足だと考えて生きています。もちろんどう生きていくかは個々人の自由ですが、満たされない思いを抱え続けたままで人生を送るのはいかがなものかと思わずにいられません。己に足るとはどういうことなのか、その点をもう一度考えてみてはいかがでしょうか。

  • 比較する心

     人はこの世に生きている以上他人との比較というものを避けることはできません。自分以外の他人という存在があることにより、他人との間での様々な比較を、意識して、時には無意識に行っているのです。そしてその結果が思わしくないと言っては嘆き、思わしいものであれば優越感を得られるという虚しい心の作業を繰り返しているように思います。

     とりわけ人を上回りたいという優越感の方に限って言えば、そのために誇張や場合によっては虚偽まで持ち出してくることさえもしばしば耳にします。

     私自身は行動や言動で比較をしないよう努めており、以前記載した水の如くのとおりそもそも人の上に立つなどという考えはしません。しかし残念なことに私の心の中では勝手に比較の作業が始まっています。

     たとえば世間で広く使われる平均の数値というものに対して、平均が示された瞬間に心は勝手にその数字と私を比較しています。形を問わず私以外の存在を意識した瞬間に、心の中では様々な角度からの比較が行われるのです。こうなると比較することを否定してばかりもいられません。

     また比較には好ましい点もあり、自分を高めるためのライバルという存在との比較が好ましいものであることは容易にわかることでしょう。比較があるから目標ができ、その結果として成長があります。さらには自分のレベルや評価を知ることで足りない点やさらに伸ばせる部分を確認でき、もう一歩進むことができるという点でも効果があるといえます。

     しかし比較のために本来気にしなくていいものまで気にしてストレスに苦しんだり、ひどいときには自分の精神状態を危うくしかねないほど悩んだりもします。

     自分と他者の能力差、学歴や勤務先、年収などの比較はよく行われていますが、現代に生きる多くの人はその状況を見ては絶えず一喜一憂しているように思えます。比較した結果劣等感やストレスになるような比較なら最初からやめておけばいいのにと思ってしまいます。

     いま仮に自分の右に自分より恵まれていない(と思っている)人がいて、左には自分より恵まれている(と思っている)人がいたとします。比較をする人は、右を見て優越感を、左を見て劣等感を感じることになるでしょう。でも見る方向を変えただけで自分は何一つ変わっていないのです、それに恵まれているか否かも自分が勝手に思っているだけでしかなく、実際には全く逆かもしれません。

     つまるところ大方の比較という作業は他人と比較をしているようでいて、実は自分の優位さを確認するため「自分にとって都合のいい想像」をしているだけなのです。

     比較という行為によってさまざまなことを気に病むのが如何に無駄であるかを書いてきましたが、それでも比較をやめられないという方もいるでしょう。人間の持つ「慢の心」に従えばそれもやむを得ないことでもあります。

     ただ先ほども述べましたが、所詮自分にとって都合のいい想像をしているだけなのです。それを承知で比較を続けるのであれば好きなだけ続けたらいいと思います。

  • 四苦八苦

     私の考えの大部分を占めている仏教においては、「この世は苦である」と説かれています。そして代表的な苦である四苦と言えば生、老、病、死の四つを指します。生きていること、老いること、病を得ること、そして死ぬこと、これらはいずれも大いなる苦しみであり、また病以外は決して逃れることはできません。私のように高齢になると嫌でも老と病と死に直面し、その苦しみの強さゆえによりしっかりと向き合わねばならないと感じます。

     仏教ではさらにあと四つの苦、即ち愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つですが、これらを合わせて四苦八苦と言います。余談ですがこの中の怨憎会苦という言葉は「嫌いな人に会わなければいけない苦しみ」を表していて、現代社会で多くの人が悩まされ、時に精神を病んでしまうことのある人間関係を、仏教ではすでに苦しみであると定めていたのです。

     四苦だけでも十分に苦しいのに、それに加えてあと四つ苦しみがあるのだから、この世は苦しみに満ちていると考えるのが妥当でしょう。しかし本当にそうでしょうか?

     長い人生の中には幸せなこと、喜ばしいこと、嬉しいこと、楽しいこと、心地よいことなどいわゆる楽も沢山あふれています。生きている中で楽というものに出会い、その楽が人生に多くあることが好ましいものと理解する、しかし楽はいつでも手に入るものではなくどちらかというと得難いものなので、より一層楽にあこがれてしまうのです。

     楽が当たり前であってほしいから、楽ではない状態に置かれると「これは間違っている、もっと楽しいはずだ」と思い込み、思うようにならない不条理な世を嘆くことになります。しかし四苦八苦とあるとおりそもそも人生は苦が当然の姿なのに、楽が続くことがあるべき姿と思うから余計に苦しむのです。

     仮に楽が続いたとして本当に楽しいと思えるでしょうか。楽が当たり前になったとしたら、恐らくそれは楽ではなくただの日常であり退屈な毎日と一緒でしょう。昨日感じた楽と同じことが今日もあったとしても、同じように楽とは感じられません。楽を感じ続けるには昨日より今日がより楽でなければならず、そのためには永遠に右肩上がりに楽が増えない限りできませんがそんなことは不可能です。苦の中で見出す楽にこそ楽の真の価値があり、その一方で楽を知った後には必ずまた苦に戻らなければならないのです。

     四苦八苦しながら生きるつらい世の中ですが、人生においては苦が当たり前の姿と覚悟して、時たま訪れる楽を存分に楽しむ、やがてその楽が過ぎてしまったら潔くまた苦に戻る、私の生き方はこれでいいと思っています。

  • 水の如く

     古代中国の思想家で道教の大家である老子の一節に「上善は水の如し」とあります。これは水のような生き方が人としての最も理想の姿という考え方です。水は弱々しく流れながら、障害物があればそれを回り込むように避けていきます。水の流れは決して高い方へ向かうことはなく、多くの人が好まない低い方へ低い方へと進んでいき、やがては地面にしみこんで見えなくなります。しかし水はそのあとに万物を潤して多くの恩恵を与えながら、しかもそのことを誇ることもしないのです。

     人間はこの世に生まれたからにはとにかく高い方へ行こうとしています。別に山の頂上という意味ではなくて、他人よりも多くの財を手に入れたいとか、より高い地位に就きたいとか、大きな名誉を得たいという考え方を高い方と言い換えただけです。最近の言葉で言えば「勝ち組になりたい」ということでしょうか。

     このこと自体は特におかしなことではありません、人間であれば当然の意識で、むしろそう考えない方が残念な生き方なのかもしれません。

     しかしこの高い方へ向かおうとする考えの源はすべて欲によるものであり、欲を出してもっと上、もっと上と目を血走らせている姿なのです。

     ある目標に向かって真剣に取り組んでいた人が、見事にその目標を達成して満足を得たとしても、その次の瞬間には「まだ上がある」と考えて、また満たされない毎日に入っていってしまいます。さらに上へと欲に突き動かされて、とどまるところを知らない欲の行先を目指しているのです。その結果の行き着く先に見えるものはいったい何なのか、いやそもそも行き着く先が存在するかもわからないのです。

     欲に従って上を目指して突き進むのが間違っているのではありませんが、どんなに頑張っても最後は必ず下に落とされることになるでしょう、なぜなら命が終われば土の下に埋められるだけですから。シェイクスピアのヴェニスの商人のセリフではありませんが「金色に塗られし墓も、下は蛆の巣」なのです。

     また上と言っていますが、そもそも「上」自体が明確に定義されているものでもありません。財産が多ければ、地位が高ければ、名誉を得れば人生では上などと決まっているものでもありません。所詮は人間が人間の世界で勝手に作り上げた幻想にすぎないのです。

     上を目指す競争で苦しんで、何とかたどり着いた上で生きていくことにまた苦しんで、さらに上を目指すことで苦しむ、そうしているうちに人生の時間が終わってしまうとしたらなんとも残念な人生という気がいたします。

     そんな人生を歩むくらいなら、私は水の如く重力に従って下に落ちていく生き方でいいと考えています。自分が社会の底辺にいることを理解し、今を生きている命、とりあえず動ける体、それと衣食住が足りているのならそれ以上のものは求める必要がなく、あとは下へ下へと流れていきながら日々を送れることに満足していく、そういう生き方が私には合っているのです。

  • 照于一隅

     65歳にもなると、嫌でもいろいろなものを諦める時が来ているのを感じながらの人生になっています。恥ずかしいことに小さい頃はそれなり一角の人物になると思って生きていましたが、取るに足らない存在のままでここまで来てしまったというのが実感です。おそらく他人から見たら、うだつの上がらない人生に見えることでしょう、ですがそのことに後悔は全くと言っていいほど感じておりません。それは私がいつも自分の思ったように生きてきたと言えるからです。

     仏教に「照于一隅」という言葉があります。文字通り一隅を照らすという意味で、誰もが広い世界の中のほんの片隅を照らしているものということを表しています。自分の歩んできた人生で世界のどこかの一隅を照らしているという想いは全くありませんが、とは言えこんな自分でも何か他の人の役に立つこともあったかもしれないとも思っています。

     世界の一隅を照らすなどというと、人によっては一隅どころではない、もっと大きな範囲を照らしていると胸を張る人もいそうですが、たとえ一国の元首になったところでそれは人間の世界での話であり、人間の世界で大きな仕事を成し遂げたからといって照らす範囲が広くなるものではありません。人間が何を成し遂げてみたところで神や仏の前では所詮一隅を照らしたに過ぎないことなのです。

     一隅を照らすとは、あくまで自身の命をしっかりと生ききることであり、生きた時間の中身の問題ではありません。わずかな時間しか生きられなかった不幸な赤ちゃんが、そのわずかな時間に両親に与えた幸福はこの上ないものであったとことでしょう。そのことで赤ちゃんはしっかりと一隅を照らしていたのです。

     誰しもこの世に生を受けた後は、できるだけ豊かな、恵まれた、実り多い人生を望むのは当然のことですが、それが叶わないからと言って取るに足らない人生などと悲観する必要は全くないのです。それぞれの人がそれぞれの人生をしっかり生ききる、このことこそが紛れもなく一隅を照らす生き方と言えるのではないでしょうか。

  • 人生は不条理だから続けられる

     どんな場面でも自分が望んでいるとおりの結果がもたらされないと、多くの人は不満に感じるものです。結果に対する期待が大きければ大きいほど、期待に添わない結果に対しての不満はさらに大きくなります。たとえ自分が勝手に期待して妄想を膨らませていただけだとしても意に沿わない結果というのは受け入れがたく、どうかすると何か他のものが自分に悪意を持っての仕業と考えてしまい、周囲に攻撃的になることさえ起こってしまいます。

     仏教でも「人生は不条理」と説いています。何事も思うようにはいかないものであり、努力をしたら必ず報われるわけでもなくその逆も起こります。災難にあった人にさらに追い打ちをかけるような悲劇が見舞うことだって珍しいことではありません。「神か仏か知らないがなぜこんな苦しみを与えるのか」と問い、周囲に不満を言うこともあるでしょう。とりわけ自分は善行を積んできた自負のある人であるほど、そうした不条理に対する嘆きは強いと思います。

     しかし、こんなことを口にできる私はきっと本当の苦しみに接したことのない、いわばお気楽な人生を送っている存在ということかもしれないのですが、人生において不条理でない、つまり条理が通る状態の方が本当に正しいのでしょうか。もし不条理ではない状態、つまり望んだことがすべてそのとおりになるとしたら、果たして生きていて楽しいと思えるでしょうか?仮に明日何が起こるか全部わかるとしたら、他の人はともかく私にとってはとてもつまらないことなのではないかと思います。

     結果がどうなるかわからないから一生懸命頑張るし、逆に結果がどうなるかわかっていたら努力など一切しなくなるでしょう、いや恐らくは何かをしようと考えなくなるような気がします。それではこの世に来た意味が全くなくなってしまいます。

     不条理なことは仕方ないし、思うようにいかなくてつらい思いもすることになります。時には自身の命さえ終わらせてしまうほどの絶望に見舞われることも起こってしまうかもしれません。しかしそうした苦しみの中にあっても、なお命尽きるまで生きることにこそ、私は人生の意味があるのではないかと考えています。今日の苦しみが明日も続くかもしれないですが、それは明日にならなければわからないことです。

     だから人生は不条理と嘆き悲しみつつも、その不条理ゆえにまた明日を生きていけることが最大の救いであるように私には思えるのです。

  • 人生の目的ってなに?

    人生の目的というとあまりにも大げさな感じがしますが、現代ではしばしば耳にすることが増えた言葉です。人生というものには最初から決まった目的というものがあることを前提としており、こういった言葉を使う人の心の中には「自分の人生はもっと輝いているもので、こんなものじゃない」といったニュアンスが感じられます。確かに思うように進まない人生を送っていると、時にはこんなものじゃないと考えたくもなるのもわかります。

    恐らくはきっと自分にはもっとふさわしい役割があり、そのためにこの世にやってきたのに報われていないと考えているのではないかと思います。自分はもっと多くの人に認められるべき存在で、そのためにやりたくもないことをたくさん引き受けて頑張っている、それなのに全く報われずにストレスばかりの毎日を強いられ本来の自分の姿とはかけ離れた人生を歩まされているなんて納得できない、といったところでしょうか。

    しかしそもそも人生に目的なんてあるのでしょうか?以前にも書きましたが生物学的に考えた場合、自らの意思でこの世に誕生した人間はいないと私は考えています。何らかの特別な力によってこの世での時間を与えられているのであって、最初から自分で目的を持ってこの世に誕生した人間はいないのです。

    だとすれば目的が何かを探したりしてもわかるはずはなく、ただ唯一自分の人生を全うすることだけが求められているのではないでしょうか。生きていた時間の長短はもちろん、如何な功績を残し、また如何な罪を犯したかなどすべて二の次のことなのです。

     私は人生の目的など最初から存在していないと考えていますが、一方で「これが人生の目的」と信じて生きていくことはできるとも思っています。芸道であれ、学術研究であれ、スポーツであれ一途に打ち込んで一生を賭けているような人は、これが人生の目的と胸を張って言えることでしょう。そしてそのことはこの世で最も幸福なことではないかと思います。

    ですが残念ながら多くの人はそうはなれないので、せめて自分の命の限りしっかりと生ききることが人生の一番の目的と思い、今日そして明日を生きてほしいと願っているのです。

  • 現世で何をするのか

     この世に誕生した目的を達成するためにはいただいた命を最後まで生ききると述べました。しかしこのことは当然人それぞれで異なるものでしょう。

     自分の人生の目的をしっかりと持っているという人は決して少なくないでしょうが、しかしそれはあくまでその人が信じているに過ぎないことではないでしょうか。

     勿論そうした信念を持って生きていくことは大変素晴らしいことと思います。しかし自分の人生の目的が本当になんであるかは誰にもわかりません。

     現世に生きている人はその点をあまり考えていないように思います。すなわち「あなたは何しにこの世に来たと思いますか」という問いに答えるものがないように感じるのです。

     社会に生きていると、否応なく他人からの評価の目にさらされます。その評価の良し悪しに一喜一憂し、時には気にしすぎてウツになってしまうこともあります。ですがそもそもその人の評価が正しいという保証はありませんし、第一その人が評価者として何ら認められたものではなく、おそらくはたまたま同じ組織で顔を合わせた程度の接点しかないはずです。誰かからの評価を受けにこの世に来たのかと問われれば、そうだと答える人などいないでしょう。

     勿論、組織の中で上の地位を目標とした場合には、ある程度は評価者の評価を高めることも必要です。しかしここで言う上の地位にしても、この世にきたから目指すようになったもので、そのほうが高い収入が得られて欲しいものが買える、あるいは周りから一目置かれる存在になれる、などおよそこの世に来た目的とするには足らないもののために行うことです。

     他人と自分を比較することや損得勘定もこの世に来た目的ではありません。少なくとも私にはそんなことをするためにこの世に命をいただいたとは考えられません。だからその程度のことに真剣になる必要はないと思っています。

     私は人からの評価というものは、評価する人の考えを反映したものであり、自分ではどうすることもできないものと考えています。とは言えこんな私に何らかの評価をいただけるなら、一度はその言葉を受け入れ、自分の中で受け止めなおします。その結果違うと思えば捨てるし、尤もな意見と思えば取り入れる努力をする、そうやってこれまで生きてきました。

     この世にいる間は常に私自身の判断に従って行動していく、これが「命を生ききる」ことだと信じています。そしてこれが私にとって現世ですべきことなのです。