昭和の高度成長期に子供から青年に成長していった私には、自分の家が、社会全体が、豊かになっていく様を目の当たりにしていた経験があります。昨日までなかったものが社会に現れ、しばらくすると家の中にもあるようになるといった具合です。
小学生のころ、子供向けの雑誌に未来の家族が過去のテレビ番組をビデオで再生して楽しむ姿が描かれていたのを覚えています。当時家庭にはテレビは普及していましたが、ビデオというのは放送用の特殊な機械でしかなく、これが家庭で利用できるなんて考えられないと思っていたものです。しかしそれから10年程度後に、家庭用ビデオはあっという間に普及し、誰もが録画・再生を行うのが当たり前の時代が来ていました。
他にもそんな事例はいくつかありますが、あったらいいな、と思うようなものが次々に現実に現れ、生活を大きく変えていってくれました。昨日より便利で、清潔で、快適な暮らしを実感するたびに、人々は更にその先へと駆り立てられていったのです。おそらくこの先もあくなき欲望の行き着く先はなく、ただ「もっと、もっと」と進もうとするに違いないでしょう。
確かに暮らしは便利で豊かになり、経済大国日本は世界に冠たる富裕の国なはずなのですが、その豊かさを実感することができないという奇妙な国になってしまいました。
一つの技術革新がもたらす便利さに浴し、やがてそのことに豊かさを見出し、いつしかその便利さや豊かさに慣れてしまい、感動が薄れた日常でしかなくなっていく、こうして今の日本人はみな便利で豊かであることに何らの感動のない日々を鬱々と過ごしているように思えます。
駅のホームに立つと、皆一様にスマホの画面を見て指を動かしていて、それだけでも気持ちの悪さを覚えますが、さらに言うとさして楽しそうでもありません。こんな生活をしながら毎日忙しいと口にしていることが私には不思議です。電車の待ち時間ですらこの有り様なのですからおそらくは自分の時間の大半をスマホに取られていると思われます。その状態で毎日忙しいも何もあったものではありません。
半世紀前の暮らしとは比較にならないほど便利になり、快適に暮らしていながら、その豊かさを感じられないというどこかいびつな社会は、この先も心を凍らせたままで死んだような眼をして、スマホの画面を見続けるような奇妙な人間の集団を作り出していくだけになるような気がします。
一体彼らはこの世を去る時に何を思うのだろうか、とは言え所詮他人事でしかないですが。