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  • 人生の目的ってなに?

    人生の目的というとあまりにも大げさな感じがしますが、現代ではしばしば耳にすることが増えた言葉です。人生というものには最初から決まった目的というものがあることを前提としており、こういった言葉を使う人の心の中には「自分の人生はもっと輝いているもので、こんなものじゃない」といったニュアンスが感じられます。確かに思うように進まない人生を送っていると、時にはこんなものじゃないと考えたくもなるのもわかります。

    恐らくはきっと自分にはもっとふさわしい役割があり、そのためにこの世にやってきたのに報われていないと考えているのではないかと思います。自分はもっと多くの人に認められるべき存在で、そのためにやりたくもないことをたくさん引き受けて頑張っている、それなのに全く報われずにストレスばかりの毎日を強いられ本来の自分の姿とはかけ離れた人生を歩まされているなんて納得できない、といったところでしょうか。

    しかしそもそも人生に目的なんてあるのでしょうか?以前にも書きましたが生物学的に考えた場合、自らの意思でこの世に誕生した人間はいないと私は考えています。何らかの特別な力によってこの世での時間を与えられているのであって、最初から自分で目的を持ってこの世に誕生した人間はいないのです。

    だとすれば目的が何かを探したりしてもわかるはずはなく、ただ唯一自分の人生を全うすることだけが求められているのではないでしょうか。生きていた時間の長短はもちろん、如何な功績を残し、また如何な罪を犯したかなどすべて二の次のことなのです。

     私は人生の目的など最初から存在していないと考えていますが、一方で「これが人生の目的」と信じて生きていくことはできるとも思っています。芸道であれ、学術研究であれ、スポーツであれ一途に打ち込んで一生を賭けているような人は、これが人生の目的と胸を張って言えることでしょう。そしてそのことはこの世で最も幸福なことではないかと思います。

    ですが残念ながら多くの人はそうはなれないので、せめて自分の命の限りしっかりと生ききることが人生の一番の目的と思い、今日そして明日を生きてほしいと願っているのです。

  • 現世で何をするのか

     この世に誕生した目的を達成するためにはいただいた命を最後まで生ききると述べました。しかしこのことは当然人それぞれで異なるものでしょう。

     自分の人生の目的をしっかりと持っているという人は決して少なくないでしょうが、しかしそれはあくまでその人が信じているに過ぎないことではないでしょうか。

     勿論そうした信念を持って生きていくことは大変素晴らしいことと思います。しかし自分の人生の目的が本当になんであるかは誰にもわかりません。

     現世に生きている人はその点をあまり考えていないように思います。すなわち「あなたは何しにこの世に来たと思いますか」という問いに答えるものがないように感じるのです。

     社会に生きていると、否応なく他人からの評価の目にさらされます。その評価の良し悪しに一喜一憂し、時には気にしすぎてウツになってしまうこともあります。ですがそもそもその人の評価が正しいという保証はありませんし、第一その人が評価者として何ら認められたものではなく、おそらくはたまたま同じ組織で顔を合わせた程度の接点しかないはずです。誰かからの評価を受けにこの世に来たのかと問われれば、そうだと答える人などいないでしょう。

     勿論、組織の中で上の地位を目標とした場合には、ある程度は評価者の評価を高めることも必要です。しかしここで言う上の地位にしても、この世にきたから目指すようになったもので、そのほうが高い収入が得られて欲しいものが買える、あるいは周りから一目置かれる存在になれる、などおよそこの世に来た目的とするには足らないもののために行うことです。

     他人と自分を比較することや損得勘定もこの世に来た目的ではありません。少なくとも私にはそんなことをするためにこの世に命をいただいたとは考えられません。だからその程度のことに真剣になる必要はないと思っています。

     私は人からの評価というものは、評価する人の考えを反映したものであり、自分ではどうすることもできないものと考えています。とは言えこんな私に何らかの評価をいただけるなら、一度はその言葉を受け入れ、自分の中で受け止めなおします。その結果違うと思えば捨てるし、尤もな意見と思えば取り入れる努力をする、そうやってこれまで生きてきました。

     この世にいる間は常に私自身の判断に従って行動していく、これが「命を生ききる」ことだと信じています。そしてこれが私にとって現世ですべきことなのです。

  • この世に来た目的

    私という存在がこの世に誕生するには、その前に両親の性行為がなくてはあり得ません。その結果父親の精子が母親の胎内で受精することで誕生に結び付くわけですが、その点をとらえて、人間はみなこの世に誕生することを自身の意思でつかみ取ったのだという話をする方がいます。

    ちょっと聞くと尤もらしく思えますが、そもそも精子の側が親同士の性行為をつかさどることは不可能ですし、性行為があれば必ず受精するものでもありません。

    それらのことを考え合わせると、私が誕生するのは神か仏か創造主かそれとも宇宙の意思か(以下創造主とのみ記します)何か特別な力を持ったものによってこの世に誕生する機会を与えていただいたのだ、したがってこの世に自分の意思でやってきたのではない、と考えています。

    自分の意思で来た場所ではありませんから、この世に自分と同じような人間がいることは知らなかったはずで、「来たら居た」というのが実情でしょう。そこで同じような人間を見て、初めて自身との比較が起きるものと思います。こうして比較、さらにはそこにいろいろな制約を付けた競争が始まるのですから、それらがこの世にきた目的ではないことになります。

    となると先ほど登場した創造主は一体何の目的で私をこの世に誕生させたのかが気になりますが、こればかりは創造主のみが知りうることで知る由もありません。しかしその一方で誕生させたからには何らの目的があったはず、という点も否めません。

    そうなるとどうしてもその目的を知りたくなるものですが、その答えはどこにもないので、自分が「これが人生の目的だ」と信じられるものを探して生きる以外にはないのです。

    ただ一つだけ、目的がわからないながらも何とか目的を果たせそうな方法があります。それはこうしていただいた自分の命を最後まで生ききることです。命を最後まで生ききれば、生きていた間のどこかの時点で目的が達成されている、そう信じてこの先も生きていけたらと常に考えています。