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  • 食事において大切にしていること

     この国の食生活は本当に豊かになり、あらゆる食べ物が食卓に上ってくるうえに、街中には異国の見知らぬ料理でさえもほぼすべてが提供されるようになってきています。おいしいものはもちろん、クセになるもの、健康にいいとされるものなど、食べたいと思ったら大方の料理にありつけるほどに食が充実した現代になりました。また衛生管理や栽培、保存、養殖技術の進歩により、季節を問わずいつでも何でも食べられる世の中でもあります。

     人々の食に対する欲求は際限なく拡大しており、加えて最近は人生100年時代を健康に長生きするためにはどのような食事をどの程度続けることが効果的かなど、食と健康の関係にも眼が向けられその種の本が書店にたくさん並んでいます。

     また一方でいわゆるグルメといわれる人々の出現で、おいしいものは並んででも食べたいと考える人も多く、グルメを紹介したTV番組やネット動画は大変人気があるようです。

     何をどう食べようと他人の勝手だとは思うのですが、私にはどうも最近食というものがあるべき姿を失いつつあるように思えてなりません。

     本来の食はあくまで生きるため、命を長らえるためのものでおいしくなければいけないものではないですし、体のためといってあれこれ取捨選択をして行うものでもなく、いろいろなものをまんべんなく食べることが好ましいはずです。

     曹洞宗の大本山永平寺では食事の際は「五観の偈」というものを唱えてからいただくとのことですが、私もそのまねをしています。ただ私には五つは難しいのでそのうちの二つを頭の中で唱えることとしています。

     まず食事をするにあたり、その食事のためにいろんな形で労働を提供してくださった多くの人に感謝すること、次にこの食事をとれるだけちゃんと生きているか、働いているか、学問に励んでいるかといったことを顧みるというものです。ですから食べている物の味がよくないなど口にするだけでも失礼な話であり、そうした感謝の気持ちを忘れているとすればそこには食べられることが当たり前という傲りの心が現れているのでしょう。加えて本当にやるべきことをやったうえでの食事であるかどうかは常に反省をし続けないと、食事が当たり前のことに成りやすいです。

     また体のことを考えて食べることは五観の偈にも出てくるのですが「〇〇は体にいい」、「△△は血液の状態をよくしてくれる」など食品の効能を過度に気にするものではなく、食そのものを体の健康を保つためのものととらえています。むやみに効能を気にした食事というのは、却って体本来の持つバランスを悪くするだけではないでしょうか。

     とは言え味にこだわることも、食品の効能を気にした食生活を送ることも別に否定はしません。それがその人自身の喜び、あるいはその人の健康に役立つと考えてのことですから、他人の私がとやかく言うことではありません。ただ、食事をとれるということが当たり前ではないことだけは理解していてほしいと思っています。

  • 年金の損得勘定 その2

     年金を受け取るに際して損得勘定はすべきでないと申し上げましたが、これはあくまで受け取る側の考え方です。

     以前、厚労省のHPに「年金は払うだけ損だ」といった意見に対して同省の回答が書かれていましたが、その内容が「年金は起こりうるリスクに社会全体で備え、皆さんに安心を提供するものです。そのため経済的な損得という視点で見ることは、本来適切ではありません」というものでした。

     私の知る限り厚労省では、年金保険料を払いたくない人を説得する際に、将来的には払った分より多く戻ってくるので得であるといった趣旨の説明をしていたように思いますが、いつから損得勘定ではなくなったのでしょう。加えて老齢基礎年金についていえばその支給額が生活保護を下回っているばかりか、生活保護なら医療費も免除されていますから、基礎年金のみの人の立場からすればこの状況のどこが『安心』なのか全くわかりません。

     また会社員は厚生年金には加入が義務付けられており、年金保険料を払うか否かの選択権は認められていません。強制的に加入させられた上に、年金保険料を絞れるだけ絞り取った後は、老後生活を保障するなどとはどこにもうたっていないからこの先は自助努力で、という厚労省が何をもって『安心』と言っているのでしょうか。こんなことでは多くの人が感じている年金保険料を納めても損にしかならないということに私も同調せざるを得ません。

     私は年金というのは長生きの保険と考えて保険料を納めてきましたし、現在はその給付を受けています。従って私自身は損得勘定を持ち込むつもりはありません。しかし厚労省が「経済的な損得という視点で見ることは、本来適切ではありません」と言うのはあまりにも不適格な回答です。給与や賞与から決まった額を納めている人にとっては、納めた額に見合った年金が受け取れるかどうかが最も肝心なことで、そこには損得勘定があるのが当然です。

     この回答では少なくとも得にはならないと言っているようなものです。本来回答すべきなのは、例えば年金保険料を自分で投資信託等を利用して運用した場合と年金機構で運用した場合の比較を行い、その結果年金の方が有利であるとわかる内容などの年金の優位性です。厚労省が匙を投げた今、年金制度への国民の不信感はさらに強くなっていく一方でしょう。

  • お金は道具 その2

     お金は道具であると言ってはみましたが、私自身のことを振り返るとその道具をちゃんと使っているとは言い難いのが実情です。私はいわゆる「散財」というものの経験が殆どありません。それは手元にお金がないことも一因ですが、実のところ私も「お金の召使い」のような状態にあり、お金を使うためには余程納得した上でないと使おうとしません、一言でいうと「吝嗇(ケチ)」なのです。

     お金を使うとなると、その対象が自身にもたらす「満足」の度合いが十分あるかをどうしても考えてしまいます。たとえばお気に入りの高級時計を買うことでどの程度私が満たされるのか、買う前にあれこれ思いを巡らします。そしてその満足感が値段に見合っているかそれ以上と判断すれば購入に踏み切ることでしょう。一方で見合っていない、あるいはよくわからない状態では、多くの場合購入を諦めてしまいます。

     こうしてお金を使うことに慎重になり、さらに私が「満足感が値段に見合わない」と判断したものがやはりそのとおりだったとすると、次に何かの購入を検討する際に余計慎重になり、結果として買わずに「余計なお金を使わずに済んだ」と胸をなでおろすことが増えていってしまいます。

     ですが本当に買わなくてよかったのかというと、実はその点は全く分からずに終わっていることに気付いていないのです。買うかやめるか迷った末に買うのをやめたとすると、買ったことによる結果は全く見ることが出来ていないのです。確かにお金を使わずに済んだかもしれませんが、得た物は何一つありません。一方でもし買っていたとしたら、期待したような満足は得られずに無駄にお金を使ったという結果かもしれませんが、少なくとも物自体は自分の手に入ります。そして買った結果がどうだったのか、また一年先、その先にどうなるかを見ることが出来るのです。

     お金が道具だというのなら本来はためらわずに使わなくてはいけないものでしょう。しかしどうしてもそこで使ったお金に見合った満足が得られるかを考えてしまって二の足を踏むようでは、結局お金の主人にはなっていなくて、逆にお金の側から「もっと大切に扱わないと」と脅されている、つまりお金が主人の状態にあると考えられます。

     もちろん闇雲に使えばいいというものではありませんが、お金は道具、使ってこそ価値があるものと言うのであれば、なるべく躊躇わずに使いたいときに使うのが好ましいのです。

  • お金は道具

     物と物を交換することで欲しいものを手に入れる方法を見出した人類は、さらにその先に進んでどんなものとも交換可能で、かつ持ち運ぶのに容易な「貨幣」を発明するに至ります。貨幣はその価値をほぼ普遍に保つことができ、またいつでも使用可能でしたから、貨幣を蓄えること=富を蓄えることと置き換えられ、その結果富める者が出現し周りとの差が生まれることとなっていきます。

     貨幣にはその誕生時点から富の貯蔵手段としての役割があり、加えてその貯蔵量の多さは豊かさの証であり、人々はその豊かさに憧れを持っていました。誰しもがお金を沢山持ちたいと考え、ある者は事業の成功を願い、ある者は一攫千金の夢を追い、またある者は地道な蓄えを続けた訳です。結果の如何はともかく、人々の願いは「金持ち」に向かっていったのです。

     しかしながらお金のそもそもの役割は交換の手段だったはずで、交換に使われないお金というのはお金本来の機能を果たしていないものということになります。使われないお金は何らの価値を生み出すこともなく眠っているだけなので、社会にとっては存在しないものと一緒なのです。お金は交換に利用されてこそ新たな価値を生み出しうるもので、そうして多くのお金が人から人に渡ってこそその存在の意義があるのです。

     ところがそうした富の集積こそ豊かさの証と思い込んでいる人がほとんどで、その結果貯蓄や投資といった手段の如何を問わずにお金を集めることに執着していけば、お金以外の価値が見えなくなっていくのも当然のことでしょう。

     諺に「人、酒を飲み、酒、酒をのみ、酒、人を飲む」というものがあり、酒を飲みすぎると、最後に人は酒に飲まれるということを戒めているものですが、お金に執着した人は「人、金を使い、金、金を使い、金、人を使う」となり最後は金の奴隷になるだけではないかと思います。

     お金はあくまで幸せを感じるための道具です。如何に貯める、増やす、儲けるかではなく、如何に使うかにもっと神経を使うべきであると、この歳になって気づいた次第です。

  • 年金の損得勘定

     ネットを見ていると年金の受取額が生活するのに十分でないという声がよく取り上げられています。その場合には年金の受け取り時期を繰り下げることによって増額する方法が案内されており、さらにそのためにはできるだけ長く働いた方がいいと付け加えられています。確かに繰り下げを使うと最大で84%程度年金が増やせるので出来るだけ長く働いて、公的年金の受け取りを先延ばしするのは一つの考え方です。

     その一方で75歳まで受け取りを延ばした場合、男性であればいわゆる平均寿命まで約6年となり、仮に平均寿命までの命だとすると年金の受け取り期間がかなり短くなってしまい、65歳から受給した場合と比べて生涯での年金受給総額が少なくなってしまう場合もあります。

     そのため多くの人が「いつから受け取るのが一番得なのか」ということを真剣に考えているようです。またそうした試算に基づいて何歳まで生きたら損しなかったことになるのかをシミュレーションしてみる人もいるようです。

     確かに年金は老後の生活の支えですが、私は損得で考えるのはいかがなものかと思っています。私は前にも記載のとおり老後の生活は年金で賄うことを基本スタンスとしています。そのために受給が開始になる前から自分と家内の年金の見込額を調べて、その約85%が手元に来るものとして計算し、算出された金額の範囲で生活していける状態かどうかをしっかりと検証してきたからです。今後支給額の逓減や物価上昇による調整を余儀なくされることでしょうが、それらもある程度見込んで別途年金資金も用意しています。

     それ故に年金を受け取るに際しての損得勘定は全くありません。そこには公的年金はあくまで長生きした場合の保険であるという考えがあり、仮に貯蓄がなくても最低限の生活はできるものという理解をしているからです。最初から年金の範囲で生活をすることができれば長生きすることに対する不安はかなり小さくできるはずです。

     もちろんそれでも不安がなくなるわけではありません。しかし現在起こっていないことに対して過度に不安を感じて対策をしても、結局また新たな不安が出てくるだけでキリがないことです。

     自分の寿命はわからないのですから年金の損得勘定などしてみたところでそのとおりに物事が進むわけではありません。また結果として得な勘定になったところでそれで喜べる感覚も理解できません、もうすぐあの世へ旅立つというのに。あまりつまらない損得に毒されず、年金は長生きに対する保険と割り切ってまず今この一瞬を大切に生きた方がいいのではないでしょうか。

  • 足るを知っていますか?

     世は令和という新時代に入って、昭和生まれの私としてはまさに隔世の感があります。かつては夢の技術だったことが生活の中に当たり前に存在し、便利という感覚すらないほどに進歩した世になりました。そうでありながら多くの人が何かしら満たされない思いや精神的な苦痛(ストレス)を感じながら日々を過ごしています。

     おそらくは今あるもので満たされているはずなのに「もっと、もっと」とさらに次を求め続けていることによるものでしょう。その結果より便利に、より快適に、より楽しくと要求の度合いは増すばかりでとどまるところを知りません。

     私にはその様子が、満たされない思いを何とか満たそうと努力しながら、一方でどこまで行っても満たされることがないという不思議なパラドックスを続けているように見えてしまいます。

     それはつまり「己に足る」を知らないからに他なりません。いや、もしかしたらわかっているけれども、周りを見回して「こんな程度で満足したら恥ずかしい」と思って、望んでもいないのにさらに上を目指そうとしているだけなのかもしれません。

     満足は文字通り「足るが満ちている」ということです。しかしその足るがどこまでのことを指すかわからないのであれば、永久に満たされることはなく、「足る」がならない「不足」や満たされない「不満」になってしまいます。

     技術の進歩による生活の改善は実に好ましいことですが、本当に自分が求めている姿なのかは自分にしかわからないことです。自分にとっての「足る」はどういうものなのか、しっかりと理解したうえで生きていかないと、一生不満なままの人生を送ることになります。

     私は今を生きている命、何とか意思どおりに動かせる体、それに衣食住が足りればそれで十分満足だと考えて生きています。もちろんどう生きていくかは個々人の自由ですが、満たされない思いを抱え続けたままで人生を送るのはいかがなものかと思わずにいられません。己に足るとはどういうことなのか、その点をもう一度考えてみてはいかがでしょうか。

  • 比較する心

     人はこの世に生きている以上他人との比較というものを避けることはできません。自分以外の他人という存在があることにより、他人との間での様々な比較を、意識して、時には無意識に行っているのです。そしてその結果が思わしくないと言っては嘆き、思わしいものであれば優越感を得られるという虚しい心の作業を繰り返しているように思います。

     とりわけ人を上回りたいという優越感の方に限って言えば、そのために誇張や場合によっては虚偽まで持ち出してくることさえもしばしば耳にします。

     私自身は行動や言動で比較をしないよう努めており、以前記載した水の如くのとおりそもそも人の上に立つなどという考えはしません。しかし残念なことに私の心の中では勝手に比較の作業が始まっています。

     たとえば世間で広く使われる平均の数値というものに対して、平均が示された瞬間に心は勝手にその数字と私を比較しています。形を問わず私以外の存在を意識した瞬間に、心の中では様々な角度からの比較が行われるのです。こうなると比較することを否定してばかりもいられません。

     また比較には好ましい点もあり、自分を高めるためのライバルという存在との比較が好ましいものであることは容易にわかることでしょう。比較があるから目標ができ、その結果として成長があります。さらには自分のレベルや評価を知ることで足りない点やさらに伸ばせる部分を確認でき、もう一歩進むことができるという点でも効果があるといえます。

     しかし比較のために本来気にしなくていいものまで気にしてストレスに苦しんだり、ひどいときには自分の精神状態を危うくしかねないほど悩んだりもします。

     自分と他者の能力差、学歴や勤務先、年収などの比較はよく行われていますが、現代に生きる多くの人はその状況を見ては絶えず一喜一憂しているように思えます。比較した結果劣等感やストレスになるような比較なら最初からやめておけばいいのにと思ってしまいます。

     いま仮に自分の右に自分より恵まれていない(と思っている)人がいて、左には自分より恵まれている(と思っている)人がいたとします。比較をする人は、右を見て優越感を、左を見て劣等感を感じることになるでしょう。でも見る方向を変えただけで自分は何一つ変わっていないのです、それに恵まれているか否かも自分が勝手に思っているだけでしかなく、実際には全く逆かもしれません。

     つまるところ大方の比較という作業は他人と比較をしているようでいて、実は自分の優位さを確認するため「自分にとって都合のいい想像」をしているだけなのです。

     比較という行為によってさまざまなことを気に病むのが如何に無駄であるかを書いてきましたが、それでも比較をやめられないという方もいるでしょう。人間の持つ「慢の心」に従えばそれもやむを得ないことでもあります。

     ただ先ほども述べましたが、所詮自分にとって都合のいい想像をしているだけなのです。それを承知で比較を続けるのであれば好きなだけ続けたらいいと思います。

  • 年金の基礎知識ぐらいは・・・

     私自身は年金の受給者になるに際してかなり詳細に自分の年金見込額やこれまでに実際に受給者に支払われた金額、また高齢の無職世帯の支出状況や貯蓄額、負債の平均など様々なデータを確認したうえで、自分なりの将来の資金計画を行ってきたつもりです。まだ働いていたころからねんきんネットを使って年金の見込み額を試算したことも何度かあります。またマクロスライドの難解な仕組みをそれなりに理解したつもりでもいます。

     しかし多くの方は年金を受け取る段になって初めてその金額の少なさに驚いているように見受けられます。ねんきん定期便で案内されているにも関わらず殆ど見ることなく捨てていたり、自分の現役時代の年収からそれに見合った金額を勝手に予想していたりという話を耳にします。それはつまり「きちんと年金保険料を納めてきたのだからまさか生活できない額なんてことにはならないだろう」という何の根拠もない安易な思い込みによるものと思われます。さらには年金に税金や社会保険料がかかり額面通りに受け取れないことに気づいてない方もいるようです。

     自分の将来において生計を維持するのに最も大切と思われる年金について、これだけ無頓着では生活設計など成り立つはずがありません。そうかと言って年金なんか当てにしなくても十分に資産があるから大丈夫、などと言える人がそんなにたくさんいるとも思えません。おそらくはそうしたお金に基づくことを考えることが「面倒くさい」のです。

     年金生活者になるのであれば、まず自分の年金の見込額や実際の手取額をしっかり把握し、その一方で毎月の支出額を大まかに把握する、こうして自分の家庭の収支をはじき出したうえで、20~30年といった大まかな年数での不足額を想定し、その他に医療、介護、家の修繕やリフォーム、家電の買い替え等で必要と思われる金額をざっくり想定しておけば、大体の目安にはなると思います。その上で残りの金額があれば自由に楽しむことに使ってしまえばいいのです(そうは言ったってどうせ使えないと思いますが)。また計算結果から不足が想定されるなら、わずかでも働いて収入を得る行動をとる必要もあるでしょう。

     たったこれだけのことなのに面倒だと先入観で決めつけて先送りし、いざ年金生活になって資金不足を心配してあたふたするのは失礼ながら準備不足と言わざるを得ません。さらに言えばこの程度の内容なら現役で働いている間でも十分に検討が可能です。こうした人生の資金設計を行わずにいると、その先でも常に資金の不安と向き合わねばならず、そんなことが死ぬまで続いていくのです。その状態で老後の人生が楽しいはずがありません。

     かく言う私も老後の準備が万全などとは考えていません。いやどんなに準備をしても万全にはならないでしょう。したがってある程度の準備をしてその上でさらに想定外のことが起きたら、その時点で改めて考える以外にはないのです。いつまでも将来への不安にとらわれていては時間が無くなっていく一方です。

     そんな不安を小さくするためには年金の基礎知識をはじめとしたお金に関する様々なことを面倒に思わず、しっかり向き合っていく方が残りの人生に少しは余裕ができるのではないでしょうか。

  • 四苦八苦

     私の考えの大部分を占めている仏教においては、「この世は苦である」と説かれています。そして代表的な苦である四苦と言えば生、老、病、死の四つを指します。生きていること、老いること、病を得ること、そして死ぬこと、これらはいずれも大いなる苦しみであり、また病以外は決して逃れることはできません。私のように高齢になると嫌でも老と病と死に直面し、その苦しみの強さゆえによりしっかりと向き合わねばならないと感じます。

     仏教ではさらにあと四つの苦、即ち愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つですが、これらを合わせて四苦八苦と言います。余談ですがこの中の怨憎会苦という言葉は「嫌いな人に会わなければいけない苦しみ」を表していて、現代社会で多くの人が悩まされ、時に精神を病んでしまうことのある人間関係を、仏教ではすでに苦しみであると定めていたのです。

     四苦だけでも十分に苦しいのに、それに加えてあと四つ苦しみがあるのだから、この世は苦しみに満ちていると考えるのが妥当でしょう。しかし本当にそうでしょうか?

     長い人生の中には幸せなこと、喜ばしいこと、嬉しいこと、楽しいこと、心地よいことなどいわゆる楽も沢山あふれています。生きている中で楽というものに出会い、その楽が人生に多くあることが好ましいものと理解する、しかし楽はいつでも手に入るものではなくどちらかというと得難いものなので、より一層楽にあこがれてしまうのです。

     楽が当たり前であってほしいから、楽ではない状態に置かれると「これは間違っている、もっと楽しいはずだ」と思い込み、思うようにならない不条理な世を嘆くことになります。しかし四苦八苦とあるとおりそもそも人生は苦が当然の姿なのに、楽が続くことがあるべき姿と思うから余計に苦しむのです。

     仮に楽が続いたとして本当に楽しいと思えるでしょうか。楽が当たり前になったとしたら、恐らくそれは楽ではなくただの日常であり退屈な毎日と一緒でしょう。昨日感じた楽と同じことが今日もあったとしても、同じように楽とは感じられません。楽を感じ続けるには昨日より今日がより楽でなければならず、そのためには永遠に右肩上がりに楽が増えない限りできませんがそんなことは不可能です。苦の中で見出す楽にこそ楽の真の価値があり、その一方で楽を知った後には必ずまた苦に戻らなければならないのです。

     四苦八苦しながら生きるつらい世の中ですが、人生においては苦が当たり前の姿と覚悟して、時たま訪れる楽を存分に楽しむ、やがてその楽が過ぎてしまったら潔くまた苦に戻る、私の生き方はこれでいいと思っています。

  • 水の如く

     古代中国の思想家で道教の大家である老子の一節に「上善は水の如し」とあります。これは水のような生き方が人としての最も理想の姿という考え方です。水は弱々しく流れながら、障害物があればそれを回り込むように避けていきます。水の流れは決して高い方へ向かうことはなく、多くの人が好まない低い方へ低い方へと進んでいき、やがては地面にしみこんで見えなくなります。しかし水はそのあとに万物を潤して多くの恩恵を与えながら、しかもそのことを誇ることもしないのです。

     人間はこの世に生まれたからにはとにかく高い方へ行こうとしています。別に山の頂上という意味ではなくて、他人よりも多くの財を手に入れたいとか、より高い地位に就きたいとか、大きな名誉を得たいという考え方を高い方と言い換えただけです。最近の言葉で言えば「勝ち組になりたい」ということでしょうか。

     このこと自体は特におかしなことではありません、人間であれば当然の意識で、むしろそう考えない方が残念な生き方なのかもしれません。

     しかしこの高い方へ向かおうとする考えの源はすべて欲によるものであり、欲を出してもっと上、もっと上と目を血走らせている姿なのです。

     ある目標に向かって真剣に取り組んでいた人が、見事にその目標を達成して満足を得たとしても、その次の瞬間には「まだ上がある」と考えて、また満たされない毎日に入っていってしまいます。さらに上へと欲に突き動かされて、とどまるところを知らない欲の行先を目指しているのです。その結果の行き着く先に見えるものはいったい何なのか、いやそもそも行き着く先が存在するかもわからないのです。

     欲に従って上を目指して突き進むのが間違っているのではありませんが、どんなに頑張っても最後は必ず下に落とされることになるでしょう、なぜなら命が終われば土の下に埋められるだけですから。シェイクスピアのヴェニスの商人のセリフではありませんが「金色に塗られし墓も、下は蛆の巣」なのです。

     また上と言っていますが、そもそも「上」自体が明確に定義されているものでもありません。財産が多ければ、地位が高ければ、名誉を得れば人生では上などと決まっているものでもありません。所詮は人間が人間の世界で勝手に作り上げた幻想にすぎないのです。

     上を目指す競争で苦しんで、何とかたどり着いた上で生きていくことにまた苦しんで、さらに上を目指すことで苦しむ、そうしているうちに人生の時間が終わってしまうとしたらなんとも残念な人生という気がいたします。

     そんな人生を歩むくらいなら、私は水の如く重力に従って下に落ちていく生き方でいいと考えています。自分が社会の底辺にいることを理解し、今を生きている命、とりあえず動ける体、それと衣食住が足りているのならそれ以上のものは求める必要がなく、あとは下へ下へと流れていきながら日々を送れることに満足していく、そういう生き方が私には合っているのです。