私という存在がこの世に誕生するには、その前に両親の性行為がなくてはあり得ません。その結果父親の精子が母親の胎内で受精することで誕生に結び付くわけですが、その点をとらえて、人間はみなこの世に誕生することを自身の意思でつかみ取ったのだという話をする方がいます。
ちょっと聞くと尤もらしく思えますが、そもそも精子の側が親同士の性行為をつかさどることは不可能ですし、性行為があれば必ず受精するものでもありません。
それらのことを考え合わせると、私が誕生するのは神か仏か創造主かそれとも宇宙の意思か(以下創造主とのみ記します)何か特別な力を持ったものによってこの世に誕生する機会を与えていただいたのだ、したがってこの世に自分の意思でやってきたのではない、と考えています。
自分の意思で来た場所ではありませんから、この世に自分と同じような人間がいることは知らなかったはずで、「来たら居た」というのが実情でしょう。そこで同じような人間を見て、初めて自身との比較が起きるものと思います。こうして比較、さらにはそこにいろいろな制約を付けた競争が始まるのですから、それらがこの世にきた目的ではないことになります。
となると先ほど登場した創造主は一体何の目的で私をこの世に誕生させたのかが気になりますが、こればかりは創造主のみが知りうることで知る由もありません。しかしその一方で誕生させたからには何らの目的があったはず、という点も否めません。
そうなるとどうしてもその目的を知りたくなるものですが、その答えはどこにもないので、自分が「これが人生の目的だ」と信じられるものを探して生きる以外にはないのです。
ただ一つだけ、目的がわからないながらも何とか目的を果たせそうな方法があります。それはこうしていただいた自分の命を最後まで生ききることです。命を最後まで生ききれば、生きていた間のどこかの時点で目的が達成されている、そう信じてこの先も生きていけたらと常に考えています。
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