65歳にもなると、嫌でもいろいろなものを諦める時が来ているのを感じながらの人生になっています。恥ずかしいことに小さい頃はそれなり一角の人物になると思って生きていましたが、取るに足らない存在のままでここまで来てしまったというのが実感です。おそらく他人から見たら、うだつの上がらない人生に見えることでしょう、ですがそのことに後悔は全くと言っていいほど感じておりません。それは私がいつも自分の思ったように生きてきたと言えるからです。
仏教に「照于一隅」という言葉があります。文字通り一隅を照らすという意味で、誰もが広い世界の中のほんの片隅を照らしているものということを表しています。自分の歩んできた人生で世界のどこかの一隅を照らしているという想いは全くありませんが、とは言えこんな自分でも何か他の人の役に立つこともあったかもしれないとも思っています。
世界の一隅を照らすなどというと、人によっては一隅どころではない、もっと大きな範囲を照らしていると胸を張る人もいそうですが、たとえ一国の元首になったところでそれは人間の世界での話であり、人間の世界で大きな仕事を成し遂げたからといって照らす範囲が広くなるものではありません。人間が何を成し遂げてみたところで神や仏の前では所詮一隅を照らしたに過ぎないことなのです。
一隅を照らすとは、あくまで自身の命をしっかりと生ききることであり、生きた時間の中身の問題ではありません。わずかな時間しか生きられなかった不幸な赤ちゃんが、そのわずかな時間に両親に与えた幸福はこの上ないものであったとことでしょう。そのことで赤ちゃんはしっかりと一隅を照らしていたのです。
誰しもこの世に生を受けた後は、できるだけ豊かな、恵まれた、実り多い人生を望むのは当然のことですが、それが叶わないからと言って取るに足らない人生などと悲観する必要は全くないのです。それぞれの人がそれぞれの人生をしっかり生ききる、このことこそが紛れもなく一隅を照らす生き方と言えるのではないでしょうか。