水の如く

 古代中国の思想家で道教の大家である老子の一節に「上善は水の如し」とあります。これは水のような生き方が人としての最も理想の姿という考え方です。水は弱々しく流れながら、障害物があればそれを回り込むように避けていきます。水の流れは決して高い方へ向かうことはなく、多くの人が好まない低い方へ低い方へと進んでいき、やがては地面にしみこんで見えなくなります。しかし水はそのあとに万物を潤して多くの恩恵を与えながら、しかもそのことを誇ることもしないのです。

 人間はこの世に生まれたからにはとにかく高い方へ行こうとしています。別に山の頂上という意味ではなくて、他人よりも多くの財を手に入れたいとか、より高い地位に就きたいとか、大きな名誉を得たいという考え方を高い方と言い換えただけです。最近の言葉で言えば「勝ち組になりたい」ということでしょうか。

 このこと自体は特におかしなことではありません、人間であれば当然の意識で、むしろそう考えない方が残念な生き方なのかもしれません。

 しかしこの高い方へ向かおうとする考えの源はすべて欲によるものであり、欲を出してもっと上、もっと上と目を血走らせている姿なのです。

 ある目標に向かって真剣に取り組んでいた人が、見事にその目標を達成して満足を得たとしても、その次の瞬間には「まだ上がある」と考えて、また満たされない毎日に入っていってしまいます。さらに上へと欲に突き動かされて、とどまるところを知らない欲の行先を目指しているのです。その結果の行き着く先に見えるものはいったい何なのか、いやそもそも行き着く先が存在するかもわからないのです。

 欲に従って上を目指して突き進むのが間違っているのではありませんが、どんなに頑張っても最後は必ず下に落とされることになるでしょう、なぜなら命が終われば土の下に埋められるだけですから。シェイクスピアのヴェニスの商人のセリフではありませんが「金色に塗られし墓も、下は蛆の巣」なのです。

 また上と言っていますが、そもそも「上」自体が明確に定義されているものでもありません。財産が多ければ、地位が高ければ、名誉を得れば人生では上などと決まっているものでもありません。所詮は人間が人間の世界で勝手に作り上げた幻想にすぎないのです。

 上を目指す競争で苦しんで、何とかたどり着いた上で生きていくことにまた苦しんで、さらに上を目指すことで苦しむ、そうしているうちに人生の時間が終わってしまうとしたらなんとも残念な人生という気がいたします。

 そんな人生を歩むくらいなら、私は水の如く重力に従って下に落ちていく生き方でいいと考えています。自分が社会の底辺にいることを理解し、今を生きている命、とりあえず動ける体、それと衣食住が足りているのならそれ以上のものは求める必要がなく、あとは下へ下へと流れていきながら日々を送れることに満足していく、そういう生き方が私には合っているのです。